恋愛も仕事も大丈夫?。あなたは野暮じゃないですか。

恋愛も仕事も大丈夫?。あなたは野暮じゃないですか。

小学生ですでに
『なんで勉強するのか』
なんて考えながら通学した人が
どれだけいるのだろうか。

私にとっての学校は
とにかくみんなが行くところ、
みんなで同じ教科書を読んで、
遊んでっていうそれだけの場所だった。

おそらく私の親も教えてくれたのだろうが
私にとって学ぶことの理由は
他の子に勝ちたいとか
そんなものだったのを覚えている。

【浅草・下町職人モノ語り】を読んで・・

もしも自分が浅草で
柘植恭一郎さんのもとに生まれていたら
きっと叱られていただろう。
彼は昭和初期の時代からすでに
英語を学べと教育していた強者だ。

英語をツールとして
商売をする時代がくると断言し、
お客さんと上手く話すために
国語も手を抜くな、
そしてお金の計算ができなければ
商売にならないのだから
算数も絶対だ、と言ったそうだ。

ちなみに柘植恭一郎とは、
柘植製作所(喫煙具屋)を立ち上げた創始者で
この本の著者の父である。

彼がどうやってそれを知っていたのか
感じていたのかはわからないが
その言葉は本当に適格だと言わざるを得ない。

口癖のひとつには
『職方商人(しょっかたあきんど)であれ』
というものがあるが、
職人でいるだけではいけない
理にさとい商人でいなければならない
ということらしい。

「まさか!」
マーケティングを語るのか!?
と私は読み進めながらワクワクした。

“アキンドはただそこにあるものを
 捌くだけでは生き抜けない。
 賢く売るのが粋な仕事の仕方なのだ。”

“商売人は野暮であってはならない。”

野暮っていう言葉を久しぶりに聞いたため
念のため意味を調べたが、
洗練されていないこと、無粋なさまをさす。

彼は人との交流を大事にしており、
仕入れで値切る場面でも
「こちらが勝ってはいけない、
 野暮な交渉はするな」
という教えを一貫してきている。

人の心理をよく理解し、
お互いに気持ちの良い長期的な付き合いを
視野に入れているからこそ
出てきた言葉なのだろう。

安く仕入れるために
相手のプライドを傷つけては元も子もない。
気持ちよく値段を下げてもらえるように
会話を進めるのが粋である。

まず相手の話を聞く、
相手の行動パターンを見る、
その人のことどれだけ知っているかで
繊細に対応ができる・・というのは
正直私でも想像が付くが、
そんなことが商いにおいても大前提であるとは
ここで再認識させられた。

また、啖呵売(たんかばい)という言葉とは
今まで縁がなく生きてきた。
タンカウリをわざわざ
そう読ませているのかもしれないが、
とにかく浅草ではそれは商売のひとつらしい。

的屋と聞けば、
私が想像するのは夏の夜祭りだが
浅草では的屋は日常的にみられていたそう。

巧みな話術で物を売る。

一見すると無関係に見える的屋同士が、
実は裏で皆繋がっているとか
実は全員サクラだったとか
そんなことは全く普通のようだ。

誰かが買えばみんなつられて買う、
それがよく知られたもので、
調子のよい戦法に使われていた。

著者の身近な職人さんたちとは
えらく異なるこの商法、
私個人的には向いていないと思う。
人を騙すのは性に合わないし
なんだか罪悪感が残る気がする。

いや、的屋が騙しているかといわれれば、
直接嘘はついていないのだが。
やっぱり後ろめたさがある。

ありとあらゆる方法で
客を洗脳しては気持ちよく買わせる。
その「気持ちよく」が肝なのが
読んでいてわかる。

売る人間の個性、
キャラクターが物の値段を決めているようで
気分がよくなればいくらだって出すのが
かなしいかな、人間の性のようだ。

では、粋な商売人は実際にどんな人間なのか。

今度はもっとその人間の部分の話になるが
要は『張り』が物をいうと著者は語る。
簡単に言ってしまえば、
いかにさりげなく格好つけるか・・
ということとと私は解釈した。

料亭なんかで履物を脱いだら足袋も履き替える。
新しいものでなくとも、キレイな白を選ぶ。
足袋の小ハゼは象牙なんかで
オシャレをしても良いだろう。
オシャレは足元からとはこのことだ。

そこまで気を遣えているということが、
わかる人にはわかる。

風呂敷も同様。
小奇麗なものを選ぶこと、
中身をパンパンに詰めないこと
それが『張り』。

<わかる人にはわかるのだ>とは
奥深いと言い表しだと思う。
謙虚でありながらも自信があるのがわかる。

その(高貴な)レベルの人には
そのさりげないオシャレが
しっかりと意識されるレベルで見えるのだろう。
見えるかどうかで人格が判断されるということ。

着物の領分で言えば、
浅草帯源は2寸で一般的なものは2寸2分。
たったの2分の違いは実に0.8cm。

私はそれをわかる人にはなりえない。
だが、わかる人にはわかる。

歌舞伎なんかの噺家や踊りをやる人には
細いほうが都合がいいというわけで、
理由があって細いそうだが、
ただ格好いいと思ってそれをつけて出かければ
その人たちの領域に足を踏み入れることになる。

少し大げさにも聞こえるが、
歌舞伎なんかに精通していないで
その「わかる人にはわかる」オシャレをしてしまうと
知ったかぶりをしているようにも
捉えられてしまうのだ。

知ったかぶりは野暮だ。

野暮と粋の境は難しく、
粋が過ぎれば野暮。
ちなみに張りが過ぎればツッパリ屋。
なんでも塩梅が大事だと痛感する。

そういえば、
やっとアメリカでも取り扱われるようになり
煙管の顧客が増えたころ突然、
煙管がマリファナの喫煙具とされて
販売できなくなってしまったらしい。
ふりだしに戻ったということだ。

しかしそこでもショッカタアキンドが
粋な対応を見せていた。

彼は、
煙管をあくまでも日本の喫煙文化のなかの道具
としてブランド化し、
また取り扱いしやすいように
袋や掃除用具もそれ用のものを制作した。

広告でも着物を着て、
歌舞伎役者が使っているということ
を全面に推しジャパンをアピールした。

するとそれがきっかけでまた
煙管が有名になり商売が勢いに乗ったのだ。

物事をまず事象として理解し、
柔軟に対応できたのは
彼が常に<理にさとい>商人であったからなのだろう。
落ち込んだままでいるのは野暮だ。

実際これは何をするにあたっても
通用するマインドセットだ。

野暮になるな。
常に職方商人であれ。